横浜のれん会とは・・
たとえば、の話である。
東京の友人(といっても出身地は地方)がたまさか来浜するとする。税関か船会社へのちょっとした用件らしく、「すんだので時間はないか」とくる。
そこで、逢う。「港の街を歩いてみたい。ちょっぴり買物も」行きたい方向へ案内する。いうまでもなく一献くみ、食事し、土産物のアドバイスもする。
こんな場合、やはり思い当たるのは、まずは『横浜のれん会』加入の店のことだろう。
大体、東京に対してはいづくの市街でも畏敬する反面、いささかの反発心をもつものである。
あちらが「お江戸でござる」ならば、こちらは「ジス・イズ・ヨコハマ」で行こうの心構えだ。
『横浜のれん会』は全国でも稀れな、たべものだけの会であり、かつ『横浜の伝統と味を守り続ける老舗のお店』です。
横浜は非サムライの街だ。開港でやってくる外国文化勢力に対しては、非暴力、友好で応ずるほかないではないか。
戦時中に押さえつけられていたモダニズム、いくたびかの予兆に耐え、守ってきた横浜の工キゾチシズム。ここにハマ美意識があり、その中から生まれたのが『横浜のれん会』なのだ。
なつメロの主役といわれた作曲家の藤浦洗作曲の「別れのブルース」は服部良一と組んで大ヒット、一世を風靡した。この歌は最初は「本牧ブルース」だったように2人はブルースのテーマを深しに横浜にやってきて完成させた。
作家で横浜とゆかりの深くて、科理にも一家言を持っていた池波正太郎も昔の横浜についてこう書いている。「(前略)秋がふかくなると波止場一帯は、ふかい霧に包まれる夜があって、そんなときには、必ず波止場へ出かけていったものだ。
外国船の甲板にペルシャ猫(ネコ)が歩いていたりして、よく飽きもせずに、波止場を歩きまわった。
朝早く波止場へ行くと、黒人のパン屋が馬車を駆ってパンを売り歩いていたのを見たこともある。
元町もよかったが、弁天通りも好きであった。(以下略)「神奈川新聞・昭和38年4月4日付「ハマの思い出」、池波正太郎より」。
『横浜のれん会』は昭和28年、横浜市内において食味の業を営み、客自の『のれん』にそむかぬ業績と信用を有するものが集って結成した会員組織によるものだ。
昭和39年、当時の竹内重吉会長は「“名物に美味いものなし”の諺は横浜には存在しない」と声明に似た明記をし、またこう続けている。
「横浜には横浜ならでは味わえぬ『味覚』がのれん会によって引き継がれていることを私どもはひそかに誇りに思っている」『のれん』それは評価できないはど複雑な要素をもち、長い歳月と努力と技の集大成としての大きな信用をこの中に見出すことができるとして、当時は37店の老舗が加盟していることを宣言している。
当会が結成される直前(昭和28年前後)の横浜は、まだ戦災被害からの復興途上だった。
関内などでは『関内牧場』と内外から称された。進駐軍(連合軍)に焼け残った主な建物や港湾は接収されていた。
伊勢佐木町1・2丁目のメインストリートは軍のPXなどにされ、有隣堂は野毛に移転させられ、隣接の長者町一帯は飛行場として利用さられていた。全国の主要都市の中で一番、復興の遅れた理由の大なるものがこの状勢にあった。
若い女性は夜間ひとり歩きは出来なかった。
会を結成することになるメンバーの幾人かの店舗は、この接収対象地域である関内地区にあった。
具体的に並べてみると、中区山下町の『ホテルニューグランド』、『翠香園』、『かをり』、相生町の『相生』、尾上町の『竹うち』、『松むら』、『わかな』、関内の『八十八』、『中村屋』、末吉町の『太田なわのれん』、吉田町の『はま新』、長者町の『かつ半』、『シゲタ商店』、伊勢佐木町の『文明堂』、『花見煎餅』、『桃山』、『みのや本店』、港町の『天吉』、本郷町の『喜月堂』、いまは全沢区に移った『喜代作』などがあった。
そのためこれらの該当の経営者は、市長・市会議員、商工会議所などと一体となって米軍当局や政府に接収解除を働きかけた。この努力が実り始めたのは、朝鮮戦争による特需景気で横浜経済もようやく立ち直りを見せ始めた昭和25年〜6年ごろだった。
昭和27年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立国家として国際社会に受け入れられた。これにともない大桟橋、新港、税関ビル、ホテルニユーグランド(かつてマッカサー総司令部ともなっていた)山下公園などがつぎつぎと接収解除となっていった。市民の要望の強かった関内地区のそれは、同27年11月のことだ。ちなみに昭和30年末までに市内で接収解除になったのは、接収された土地面積のわずか3分の1、建物面積の半分にすぎず、戦災と占領からの復興、解放は、当のれん会の願望のみならず市民の強い願望だったわけだ。このような時代背景もあって、当会の会則が「会員相互の営業の進展と親睦を図るだけでなく、よって横浜市の発展に寄与せんとする」ことを「目的」としているのはそのためである。
設立発起人が誰であるかは判っていない。だが空襲で焼け出され、モノのない時代だったが、戦前からの老舖の経営者はそれぞれ面識があった。力をあわせてやろうと誓い合ったものだ。
自分の店名と「横浜のれん会」の文字を両衿(りょうえり)に染め抜いた法被で、行書体の文字のものと勘亭流の文字(歌舞伎や席亭で使われる文字)のものと2種類ある。
昭和29年9月、日枝神社の祭りの記念写真には、濱新、お可免、文明堂、太田縄のれん、センターグリルなど16人の法被姿がうつされている。
翌30年の新年会の写真には、濱新、お可免、文明堂、太田なわのれん、センターグリルなど19人の男女が撮影されている。
港の復興が慣浜の発展に通じるとは、当時、誰もが確信していた。市でも港湾の整備拡充と工業生産力の発展に力を注いだ。貿易立国、ミナト横浜の復活を目指したわけだ。
昭和33年には横浜開港百年祭が盛大に開催された。その数年前から市では「港まつり」に力を注いでおり、発足当時の横浜のれん会も「娘道成寺」の仮装をこらし、何度かこの行列に参加し、ミス・ヨコハマ(第1回は27年)らとともに祭を盛りあげるのに役立っている。